盗んだバイクで走り出した頃

子供の頃は”ちゃんとしないこと”をカッコイイと思う時期がある。”ゴミをゴミ箱に入れないで道端に捨てる”であったり”宿題を忘れる”であったり”校則を破って風変わりな制服を着る”であったり”約束の時間を守らない”であったり。何かしら他人や社会に迷惑を掛けることで自己主張をしたがり”ちょいワル”であることを何となくカッコイイと思う年頃だ。かつては”ジェームス・ディーン症候群”、日本では”尾崎豊症候群”などと呼ばれた(かどうかは知らない)。

”ちゃんとする””真面目にやる”ことが何となくダサく感じてカッコ悪いと思うのは精神的に未熟な若者によく見られる傾向であるし、程度の差こそあれ多くの若者が通る道だ。
しかしやがて大人になって社会に出て周りの様子が見えてくる。自分の立ち位置が解ってくると”カッコイイ”と思っていたことが逆に”ダラシなく”見えたり”ダサく”感じたりするようになる。カッコイイと思っていたことが”屁のツッパリ”だったことに気づくときだ。若い頃は改造車に乗ってブイブイいわせていた暴走族もほとんどが、いい年になると結婚して家庭を作り優しいパパやママになる。もっともそれだけが必ずしもいいことだとは思わない。
だがごく一部には子供から抜け出せないでいる”幼稚なままの大人”がいることも事実だ。突っ張り続けることは見方によれば一般のオトナ社会から脱落することを意味する。

幼いまま現実に気づかずに「コドモ大人」になってしまうのはどういうことなのだろう。
子供は大人になるに連れて徐々に社会との繋がりが増えてくる。幼稚園や小学校の学区よりも中学や高校のそれは広く、付き合う友達や先生も多様化する。大学に行けば交友は全国区になるし就職すれば場合によってはワールドワイドな関係を築くこともある。それは取りも直さず地域ごと環境ごとに異なる価値観がぶつかりあうということに他ならない。地域が違えば環境も違う。言葉が違ったり、肌の色が違ったり、宗教観が違ったり、海があったりなかったり、川があったりなかったり、山があったりなかったり、雪が積もったり積もらなかったり、通勤ラッシュがあったりなかったり…。ほんの些細なことでも人の価値観が大きく違うことがある。

幼児期には自分の歩き回れる行動範囲が全世界だった。自転車に乗れるようになると行動範囲も広がる。バイクや車を手に入れれば行こうと思えば日本中どこにでも行くことができる。飛行機に乗れば理論的には世界がフィールドだ。見聞を広めるとは恐らくそういうことなのだろう。
しかしただ”行って見る”だけでは表面的なことしかわからない。多くの人と話して知識を吸収することで多様で深い世界が存在することを知る。それは”今”だけではなく過去の歴史の世界に於いても同じだ。

生まれた地域から出たことのない人が異なる価値観と出会う確率は低い。そして異なる価値観を知らないがために異種の価値観に対する拒否感も強い。必ずしもすべての価値観を受け入れて同調する必要はない。同調する必要はないが知ることは大切だ。だからこそ積極的に異なる価値観を知ろうと努力することが大切なのだ。

異なる価値観を拒絶する人は時として相手の価値観を認めることができない。そして自分の価値観を押し付ける。お互いの価値観の違いを認識して許容できれば自分の価値観を提案することはあっても押し付けることはない。しかし異なる価値観を許容することができなければ、自分の価値観に多様性ができにくく磨かれることもない。あまり言いたくはないが世界の紛争のほとんどが自分と異なる価値観を許容できないことと、エゴである富の略奪が原因だ。

自分の世界が狭ければ自分だけの狭い価値観に閉じこもるしかない。中学生や高校生などの未熟な人間にありがちなことだ。しかし多様な価値観を知らずに、かつそれと直面した時にそれを許容しなかった結果がどうなったのかを教えることが教育の一つの目的だと思っている。勉強はテストでいい点を取ることが目的ではない。いい点を取ることも日本では大切だがその先の大きな世界を知ることが目的だ。それが自分の心も周りの人の心も豊かにしてくれるはずである。

それでも”ちゃんとしない人”は間違いなく存在する。それも一つの価値観だろう。とるに足らないことをチマチマやることで自分が小者に見られるような気がするのかも知れない。それはそれで仕方がないことだと思っている。何とかなって欲しいとも思っている。しかし「天は自ら助くるものを助く」のだ。

本当の大者は細かいことを丁寧にやるものだ。それがすなわち”王道”というものなのではないだろうか。細かいことをやらないで大物に見せようとするのは小者以下である。