真逆のネーミング

ボクは中学生だった頃にジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだ。今では村上春樹さんの「1Q84」の方が有名になってしまったが、当時は全体主義や監視管理社会の象徴として有名な小説だった。
ジョージ・オーウェルは20世紀初頭のイギリスの小説家である。オーウェルは他にも、農場で飼われている動物たちが飲んだくれの農場主を追い出して理想的な国を作ろうとする「動物農場」などを発表して恐怖政治に対する批判を繰り広げたことでも知られている。

「1984年」の中でオーウェルは、絶対支配者である”ビッグ・ブラザー”による監視管理社会の恐怖政治の世界を描いている。そこは24時間常に多数のカメラで監視され会話が秘密警察に筒抜けになっている社会で、社会はビッグ・ブラザーの言葉通りに動いている。当然、過去の記録はビッグ・ブラザーに都合がいいように改竄され書き直されている。歴史の記録を改竄しているのは「真理省」だ。
他にも正義を憎悪するキャンペーンの「憎悪週間」や個人を監視管理し反体制分子を摘発して拷問・処刑する「愛情省」、永久に戦争を続けている「平和省」、常に欠乏状態にある食料や物資の配給を担当する「潤沢省」などがある。

事実と逆の名前を付けることで何が愛情なのか、何が平和なのか、何が真理なのかの定義をすり替えていくわけだ。
先日も戦争中である韓国と北朝鮮の国境(軍事境界線)である板門店で首脳会談が行われていたのはご存知だろう。会談が行われたのは「平和の家」だ。もちろんここは戦争状態を”平和だ”と偽ろうとしているわけではないだろうが戦争をしている国同士の国境に「平和の家」があることは皮肉にさえ感じられる。

往々にして声高に平和を唱える者が侵略主義者だったり、平等・公平をスローガンに掲げる者が人種差別主義者だったりする例は世界中でも枚挙にいとまがない。ボクたちはそんなニセの社会に慣れすぎている。だから逆にそんなスローガンを見ると胡散臭く思えてしまうのだ。
それは政治や主義主張に限らない。「治りすぎる頭痛薬」や「寝るだけダイエット」などと調子の良すぎるスローガンを見るにつけ眉に唾してしまうようになってしまった。頭痛が治りすぎるって何?寝るだけでダイエットが出来るわけ?そんな事あるわけないじゃんとほとんどの人は思うが、それでも必ず一定数の人はちゃんと罠に引っかかってしまうのだ。もっとも売る側にしても全員が引っかかってくれるなんて思ってはいない。ごく少数の人が罠にかかってくれれば採算がとれるように考えている。今までは捨てていた原料を誰でも出来る方法で加工しただけなのに、驚くような価格をつけた健康食品や美容クリームなどは到るところで目にする。

いつからこういう売り方が流行り始めたのだろう。「究極のラーメン」と聞いても今のボクは「何が究極なの?」と思ってしまう。言っちゃ悪いが所詮はラーメンだ。ところがそんな店には果てしない行列ができ1杯1,000円のラーメンが飛ぶように売れている。ボクもヒマな時には行列に並んでみることがある。食べもせずに”所詮はラーメン”などと決めつけていては説得力がない。しかしほとんどの場合、店を出る時には「やっぱりな」と思うのだ。この程度のラーメンなら家の近所のラーメン屋で行列に並ぶことなくのんびりと味わって食べられるな、と。
しかし行列は魔法だ。大して美味しくもないラーメン(失礼!)でも、長い待ち時間と「限定20食」などという売り文句で味は何倍にも美化される。
試しに同じ店で行列がない時に同じラーメンを食べてみたらいい。行列に並ばずに食べてみると”あの時”は「美味かった!」と感じた味もくすんでしまっていることに気づくだろう。それでもあの時と同じ美味さを感じたなら、それはあなたが本当にその味が好みだということなのだ。

人はなぜ行列するのだろう。他人が”美味しい”と言ったものは自分も美味しいと感じなければ気が済まないのだろうか。そして本当に自分も美味しいと感じるのだろうか。
味覚や好みは個人差の権化だ。食べ物の好き嫌いのある人だって多いだろう。他人が美味しいと言ったからって自分の嫌いなものは食べないんじゃないだろうか。それとも他人が「美味い!」と言えば自分が嫌いなものも美味しく食べられるというのだろうか。もしそれで嫌いなものが食べられるようになったと言うなら、それはそもそも食わず嫌いだったわけだ。

もっと自分の感性を信じてもいいのではないだろうか。いや信じるというより拠り所にしてもいいと思う。何でも”他人と一緒がいい”と思うのは日本人の特性だとも言われている。集団行動を基本とした農耕民族特有の思考だとも言われる。「出る杭は打たれる」は小学生の時に学校で習った諺だ。他の人と同じでいることが日本の社会で生きていく上でもっとも大切な価値観だった時代もあった。
しかし平成も30年となり来年には新しい時代が始まろうとしている。横並びで他人の価値観を何も考えることなく自分の価値観だと思ってしまうことに、ちょっと違う角度からの視点を加えることも大切な時代なのだと思っている。