死体は人生を考えさせる

人生の最期を自宅で過ごせるようにしよう、という方針が政府から出されている。病院のベッドで家族から離れて辛い暗い人生を過ごし朽ち果てていくのではなく、自宅の畳の上で家族に囲まれて最期を迎える生き方をおすすめしようとしている。結構なことだ。できることならそうしたいと思う人も多いだろう。
もちろんその裏には毎年増え続ける社会保障費を少しでも減らして財政健全化の道筋をつけたいという政治家の思惑と、不足している医療従事者や介護従事者の負担低減があるのは当然だ。

かつては自宅の畳の上で最期を迎えるというのが普通だったらしいが、ボクが物心ついた頃には病院で最期を迎えるというのが普通になっていた。
50年ほど前の話になる。祖父は末期がんで入退院を何度か繰り返したが臨終の時には自宅に帰ってその時を迎えた。家には祖母、叔母夫婦、孫の5人が居り往診の医者に臨終を告げられたという。数年前に100歳で鬼籍に入った祖母もまた自宅のベッドの上での最後だった。祖母の場合は最後まで健康だったため、夜、普通に寝たのだが朝には既に冷たくなっていたという、言ってみれば幸せな大往生だった。
祖父、祖母とも最期は自宅で迎えたわけだが、その後ボクの近親者に不幸はないので死体を見る機会はほとんどなかった。

大勢の家族がひとつ屋根の下で暮らしていた頃には家族の誰かが亡くなれば顔に白い布を掛けられて部屋の布団の上に寝かされ、家族が皆で見送るという光景は普通だったのかもしれない。ボクが子供だった頃にはもちろん大家族の家庭もあったが、既に核家族化が進み三世代四世代の同居は少なくなっていた。身近に老人が少なくなるということは臨終に接することも少なくなるということだ。曾祖父母から祖父母の葬式を出したことがあれば自分の親が最期を迎える時は3回目の経験者であり、ある程度の手順は心得ている。ところが核家族になってしまうと自分の両親の最期は自分にとって最初の葬式になるわけだ。

さぁ困った。間近に死体を見たことなんて一度もない。その時を迎える時には何を準備したらいいのかもわからない。以前に「おくりびと」という映画を観たが、誰もがまさに抱えているその不安を重苦しくしすぎることなく切り取って映し出していた。
何もわからないから猛烈に不安になる。考えただけでも不安になる。寝ても覚めても不安になる。一番安心なのが病院や介護施設に入れてしまうことだ。彼らにお願いして指示をしてもらえれば何も心配しなくてもいい。何といっても自分にとっては初体験のことなのだから。

最期を迎える前には本人の体力がなくなって介護が必要なことも多い。今の日本では子供は結婚すると独立して実家を出てしまうことが多い。残されるのは老夫婦二人だけだ。仮に家に子供夫婦が残っていたとしても一億総活躍社会で二人共働きに出てしまっている。親の介護に時間を割くことも難しい。頼れるのは介護施設か病院なのだ。老いた一人の介護を老いたもうひとりがやることは現実的に負担が大きすぎる。介護する側は24時間365日の覚悟でやらなければならない。その上に病気を抱えていたりすればお手上げだろう。

多くの家庭が老老介護や老人の一人暮らしになってきている今、理想論ばかりを掲げて社会保障費を削減しようとしている政府のやりかたは現実離れしている。今後更に出生率が低迷することが予想され、少なくとも日本の人口の約半分が集中する大都市圏で実現できそうな方法ではない。

ではどうする。
今のボクには具体的な解決策は思いつかない。「出生率を上げて…」などといってもこれから生まれてくる子供が大人になるまでには何十年もかかるのだ。安倍さんがいうような経済成長が予定通りに進んだとしても、すでにいる人間の数が増えるわけではない。出生率が下がり始めて40年。今に至るその間に何も手を打ってこなかった我々が今できることは何だろう。限りなくて遅れに近いこの現状を見ると暗澹たる気持ちになりこそすれ、前向きな行動が思いつかないのである。