ぶつかる人

歩道を歩いていると脇を女子高校生が自転車ですり抜けていく。いや正確にはすり抜けようとして歩道の端に立っていた交通標識のポールにぶつかった。ガチャンという音とともに彼女は自転車ごと放り出されて路上に転がった。
どうして?
スマホを見ながら自転車に乗っていたわけでもないのになぜ目の前の障害物にぶつかったのかはわからない。幸いケガもせず、ホコリで汚れてしまった制服をはたいて恥ずかしそうに小走りで去っていった。
交通標識は昨日今日設置されたわけではない。10年も前からそこにあったものだ。いや10年前からそこに立っていなかったとしても、つい昨日立てられたものだとしても自分がぶつかると分かっていればブレーキを掛けて自転車を止めるものではないのだろうか。

一方で、小さな子供は後先を考えない。ぶつかると分かっていても止まらない。
先日、どういうわけか自動販売機に向かって突進し、そのまま激突した子供がいた。ぶつかって転んだが泣き出すわけでもなく、バツが悪いように照れ笑いをしながら立ち上がって走り去っていった。よく見る光景だ。

なぜぶつかる前に止まろうと思わないのか。気がついていないわけではない。見ていないわけでもない。ぶつかることが分かっていて”平然と”突進しているようにしか見えない。
街をよく見ると、歩行者でも自転車でも動いているときに障害を避けようとして進路を変えることはあっても、なかなか止まろうとしないのである。屋外か室内かにかかわらず狭い通路で誰かとすれ違う時、ちょっと待って相手を先に通そうとすることはまずない。必ず狭い通路で体を縦にしながらも無理やりすり抜けようとする。そしてお互いがぶつかって”すれ違うことは不可能”だということが物理的にわかるまで突進を止めようとは思わない。

自動車だと狭い道ですれ違うためにどちらかが待って、相手を先に通すという光景は普通に見られる。自動車で実際にぶつかってしまうと”タダ”では済まない上にその後の面倒な手続きが頭に浮かんで思いとどまるからなのだろうか。しかしどちらの場合も”無事にすり抜けられない”という現実には変わりはない。歩行者であっても無理してぶつかりながらすり抜けるよりも、ちょっと待ってスムースに行き違ったほうが結局のところ時間も掛からずストレスフリーなのにである。

船舶免許を持っている方はご存知だと思うが、洋上で船は右側通行が基本である。もっとも海の上に道があるところは少ない(一部、浦賀水道などは道といえば道だが)ので道路の右側を走っているわけではない。右側通行というのは船同士がすれ違う時に相手のどちら側を通るかという問題だ。しかし水の上に道路がない以上すれ違うばかりではなく、前後左右あらゆる方向から別の船と接近する可能性がある。そんな時はどうするか?
どうしたらいいか迷った時の基本は”停船する”、つまり止まるのである。

車は基本的に道路の上をルールに従って走っているので、相手の動きもある程度予想できる。ところが道路もないだだっ広い海の上では相手の船が何をしようとしているのかどちらに向かおうとしているのかを知るすべはない。だから止まって様子を見るわけだ。

道路や歩道で”このまま進んだらぶつかるだろうな”というのは誰でもわかりそうなものだが、なぜかそんな時に人はぶつかるまで止まろうとしない。
目測を誤っているのか。目測を誤ることは誰にでもあるが、生まれてこの方20年以上も外を歩いた経験があるなら、そんなに目測を誤ることもなさそうなものだ。
小さな子供は往々にして目測を誤ってぶつかる。目線も低いし何よりも経験不足だ。だがその子達も数々の経験を重ねるうちにぶつからなくなる、はずだ。ところが最近の人を見るにつけ、ぶつかると分かっているのに止まらない人ばかりが目につくようになった。
これは人間が退化しているのだろうか?