心が折れるとき

ネットを見ていて思わず吹き出した。日本語を学んでいる外国人の書き込みだ。

私が日本語を学び始めた時、
心は”折れるもの”ではなかったように記憶しています。
現在の日本語では心は”折れるものになった”と考えて
いいのでしょうか?

日本では心は折れるものになったらしい。

心というものはいつから折れるものになったのだろう。そういえば以前に女子プロレスラーが最初に「心を折る」という発言をしたことがきっかけだと聞いたことがあるが確かなことはわからない。そもそも「心が折れる」とはどういうことなのだろうと思ってネットで検索してみた。

心の支えを失って意欲がなくなったり、
障害にぶつかってくじけること

とあった。つまりは頑張って耐え忍んで我慢してやってきたことが、何かをきっかけに我慢できなくなったりやる気を失うことらしい。
つらつら考えてもボクには心が折れるような経験をしたことがないのでどういう状態なのかはわからない。

やる気がなくなるだけだったら、飽きてしまってやる気をなくすことだってあるし、ギターを弾いていて難しいフレーズに出会い、いくら練習しても弾けるようにならないときも”くじける”といえばそういう心境になることもある。しかしそれは「心が折れる」というイメージとは違うような気もする。
いくら頑張っても上手くいかないことはどこにでもあることだし、そんなことで”心が折れ”てしまうようなら、誰の心もすでにバラバラになっているはずだ。

サラリーマンをやっていた頃に担当していたプロジェクトが上手くいかず、座礁したことがあった。軌道を修正しようとしてあらゆる手立てを講じたが、事態は回復する兆しさえない。その間、メンバーの間には「参ったな」という気持ちが蔓延していった。やることやることすべてが裏目に出るような気がして「何をやってもダメなんじゃないだろうか」というあきらめの気持ちになったこともある。狭い穴ぐらに頭から入ったようなもので、前に進むことも引き返すこともできない状態だった。それは復旧までに1年以上もかかった。途中で「心が折れそうです」といって体を壊して辞めていく者も続出した。
しかしボクは心を折っている場合ではなかった。溺れて遥か上にある水面を目指してもがき続けるしかなかった。

心の支えを失う、とはどういうことだろう。自分の心を支えられるのは恐らく自分の心だけだと思っている。誰かが自分の心を支えている様子は想像しにくい。そもそも「オレはアイツの心を支えてやってるんだ」などというヤツがいたら、ただの嫌味なヤロウだ。

老夫婦のどちらかが先に天に召され、一人がこの世に残された場合はどうだろう。人間は、いやあらゆる生き物はいつか必ず死ぬ。今まで死ななかった人は一人もいない。とすれば、老夫婦も出会ったときからやがて別れが来ることは分かっていたはずだ。永遠に別れが来ないことなどないことは最初から分かっている。それならば別れが来て支えがなくなるときのことも想像できるはずだ。支えがなくなって”心が折れる”ことも分かっていたはずだ。やがて必ずやってくるその時のために、心を支える別のものは用意できなかったのだろうか。

若くして亡くなった親友がいる。誰も予期していなかった突然の死だった。いつかは来る別れだが今、突然に来るとは思っていなかった。ちょっと心が折れそうになった。
その時ボクは思った。ボクもそのうちに間違いなく死ぬ。そうしたらまたアイツとどこかで会えるかもしれない。その時は、アイツがいなくなってからボクがこの世に別れを告げるその時までにあったよもやま話をしてやろうと思っている。
そう考えたら折れそうになった心も元に戻ってきた。

以前読んだエッセイにこんな詩が引用されていた。

”Pretend you’re happy when you’re blue”
悲しい時には楽しいふりをしてごらん

悲しいときに悲しんでいるだけでは何も解決はしない。だから悲しい時には楽しいふりをしてみよう。そうすればHappyは向こうからやって来る。そんな詩だったように記憶している。

ボクにもいつか心が折れるときが来るのかもしれない。でも恐らく、心が折れて得をする人はどこにもいない。だから心は折れないほうがいい。それでも心が折れてしまったら、

そうだ!ボクは心が折れていないふりをしよう。