一夜漬け

「付け焼き刃」というのはどこの世界にもある。代表的なのはやはり試験勉強の「一夜漬け」だろう。他にもフレンチレストランに行く直前のテーブルマナー講習や海外旅行直前の外国語会話など枚挙にいとまがない。もっとも付け焼き刃とは言っても何も準備しないで本番を迎えるよりは、とりあえず最低限は恥をかかないで済むのだから意味がないことではないと思う。実際ボクも、試験開始の直前まで見ていた問題集の問題とほぼ同じような問題が出題されて予想外の高得点に繋がったということもあった。しかし所詮付け焼き刃なのでそれが実力に繋がることはなかった。もっとも”試験勉強の実力”ってなんだろうということは置いておくとして。

春や秋には学校や会社で健康診断が行われることが多い。ボクもサラリーマンだった頃には毎年職場で健康診断を受けていた。若い頃には全く問題がなかった健診結果も年令を重ねるに連れ体重が増すに連れ、あちこちに黄色信号が点灯するようになってくる。中でもお酒の飲み過ぎなどが原因のγ-gtpやメタボなどに起因する中性脂肪値、高血圧などは中年サラリーマンにはおなじみの項目だ。若い頃は女子の間で”体重”を非常に気にする風潮があったが、今でもそうなのかはよく分からない。「朝ごはんを抜いてきた」なんて言う子もいたが、そのときだけ体重を軽くすることには何の意味があったのだろう。健康診断の記録など誰に見せるものではないから、それに体重を数100グラム軽く記録されても仕方のないことだと思うが、女心はわからないものだ。

しかし同じようなことを中年男性もやっている。健康診断の1週間前から飲酒の量を減らしたり断酒したりする。外食を減らし食事量も制限するらしい。そして健康診断当日、「今回は頑張ったからなぁ」などと自慢げに言う部長の得意げな顔など見るとボクは「アホくさ」と思ったものだ。

考えて欲しい。健康診断は何のためにやるのか。体の中の不健康な部分を見つけるためではないのか。不健康な部分を見つけ出して生活習慣を改めたり必要であれば治療を始めたりするためではないだろうか。健康な部分を見つけるためでは、少なくともない。
短期的に摂生して普段の生活での数値を”その時”だけ改善して医者に見せることに何の意味があるのだろう。それはどこかが痛いときに内緒で痛み止めを飲んで「痛くありません」と医者に答えるようなものだ。正しい問診を受けられるわけがない。隠しているのだから。

実際には痛みを抑えることで他の部分の炎症を抑えて快方に向かわせるという治療方法もある。すべてのケガや病気が直接その原因を取り除くことができるわけではないからだ。しかし健康診断で付け焼き刃のように短期的に生活習慣を変えてその場だけを取り繕って乗り切ることに何の意味があるのだろう。

周囲を見ていると男も女も関係なく、とりあえずその時だけ乗り切れればいいと考えている人が大多数のようだが「乗り切る」ことにどんな意味があるのだろう。一時的に見せかけの数字を改善させて”健康なように見せる”ことは、言い換えれば”悪いところを見逃してしまう”ことになる。悪い部分が分からずに対策や治療が遅れて取り返しがつかなくなることにメリットはないだろう。

医者に「どこも悪くない」と言われれば普段の生活で摂生しなくても済む。いや本来は摂生しなければいけない体なのに、だ。美味しいが身体に悪そうな食べ物やお酒を心置きなく飲んだり食べたりすることは楽しい。とりわけ美味しいのは「塩分」「糖分」「脂・油」の御三家だ。体には良くないと言われていてもこれらを食べている時には幸せな気分になる。こういったものを心置きなく食べられたらなぁと思う。
だから誰でも「オレは健康だ」「だから塩分や油なんか気にしなくていいんだ」と思いたい。健康診断の結果もそれを裏付けてくれた。「よし心置きなく食べよう」と思う。

でも心置きなくそれをやってしまうのは、自分の体が悪くなっていることを知らないからだ。もっと言えば不健康を隠蔽しているからだ。そこで摂生しなければすでに悪くなっているかもしれない病気や症状を悪化させることは十分に考えられる。それを望むのだろうか。
もっとも先日も書いたが、目の前にないずっと先にやってくるリスクにはほとんどの人は無関心だ。

一方で最近では「見えない病気」を心配して各種の医療機関で精密検査を受ける人が増えているらしい。テレビの健康番組などでほとんど日本では症例もないような奇病ともいうべき症状を取り上げると、数少ない専門の病院や検査機関に検査を希望する人たちが列をなして押しかける。職場の健康診断と全く逆の傾向だ。テレビで見せられた悲惨な有り様を明日の自分に照らしてみる人が多いのかもしれない。現実に目をつぶる人と、ほとんど可能性もない現実を探し続ける人。

いずれにしてもすぐ目の前にある危険には敏感なくせにちょっと先のこととなると想像力が働かず、つい先日起こった悲惨な事故や災害、不届きな政治家の行いをすっかり忘れてしまうように、過去や未来に思いを至らすことができないように日本人はできているらしい。