避難訓練

”あの日”、ボクは都内の高層ビルの4階で仕事をしていた。
ビルには、地震の兆候を捉えると気象庁からの自動通報で瞬時に発報するという触れ込みだった最新の警報システムが備えられていたが、最新設備のビルは何の警報も出さずにいきなり揺れた。まだ普及し始めだったスマホにも、エリアメールを受信して発報するという機能はまだなく、静寂の中、いきなり響くような縦揺れが来た。

東日本大震災。震源地に近い東北地方に比べれば大したことのない揺れだったはずだが、それでもボクがいたビルの4階では何かに掴まらなくては立っていられないほどには揺れた。恐らくは生まれてこの方、数回しか経験したことのない揺れだったと思う。
それまでは警報が鳴っても揺れないことばかりで、実際に揺れたことはなかった。まぁ警報とは往々にしてそういうものだ。今の日本で警報慣れしている人は別段驚きもしない。学生時代から飽きることなく繰り返された火災報知器の誤報に僕らは慣らされている。

思い起こせば”あの日”の1週間前、ボクが働いていたビルでは全館の避難訓練が行われた。地震だか火事だかが発生したという想定で、非常階段を使ってビル内の全員が敷地内の公開空地に避難するというものだった。訓練は1週間前から全員に告知され、訓練の警報が発報される時間まで知らされていた。
訓練当日は時間どおりに緊急の警報音が鳴り、続いてビルの防災センターから避難指示が放送された。20階以上あるビルでは全員が非常階段に集中するとパニック現象が起きてニッチもサッチもいかなくなる。そこで非常放送によって回数ごとに避難の指示を出して整然と訓練は終わった。最後には避難した空地で総務部から講評があり、約20分で全員が避難を終えたこと、非常にスムーズな訓練だったと”お褒め”の言葉をいただいた。無事に訓練を終えられたという安堵が関係者の表情にも表れていた。

2011年3月11日午後2時46分。
ビルは何の前触れもなく大きく揺れた。室内の物が倒れたり崩れたりすることはほとんどなかったが、内装の壁にはピシッピシッという音とともにクラックが入った。揺れは1分ほども続いただろうか。机の下に身を隠した人たちは”きっと放送されるであろう”防災センターからの非常放送を待った。
2分、3分、5分、10分。30分経っても何の放送もなかった。ボクがいた隣の部署はテレビCMを作っている部署だったので10数台のテレビが並べられていた。テレビの画面には緊急を表す赤い太字のテロップが流れ、真っ黒い津波に押し流される家屋や飛行機、自動車、ビニールハウスが映し出されていた。隣にでは総務部長がテレビ画面を食い入る様に見ていた。
結局、地震が来た後はついぞ何も放送されなかった。だから誰も避難しなかった。総務部からは3時間経っても何の指示も出なかった。

窓の外には地震発生以来立ち往生したままの電車が止まったままになっており、恐らく今晩中の復旧はないと思われた。テレビのニュースでも首都圏全域で交通機関はすべて止まっていると放送していた。
ボクはかねてから「東京から平塚まで歩いて帰ることはことはできるのか」を命題にしていたので、歩いて帰るいい機会だと思って職場を後にした。

頭に残ったのは「あれは何のための訓練だったのか」ということだった。いや、訓練が必要ないわけではない。いざというときに気が動転していても、一度身体を動かしてやったことは体が覚えている。訓練は必ずやるべきだ。「そのときになればやるから大丈夫」などと言っている人がまともにできたことはない。
しかし1週間前に”訓練”をやったにもかかわらず初動から何もできなかったことを、訓練の統括をしていた人たちは大いに反省すべきだと思う。恐らくこれは訓練を一つの”イベント”としか考えていなかったために、予定されたイベントとは違う突発事態を訓練で想定していたものとは”違うもの”として認識してしまったのではないだろうか。
はっきり言って、そんな訓練ならいらない。

約60キロメートル。東京を出て神奈川に入り横浜を過ぎたあたりから猛烈だった道路の渋滞はほぼ解消していた。横浜を過ぎてから、停電で電気が消え真っ暗な道を一人でトボトボ歩いていると、畑の中の国道を走り去る何台かのタクシーも見かけるようになった。さすがに夜道を40キロも歩くと疲れてきた。辺りも徐々に薄らんできた頃、ボクは「もういいや」と思って走ってきたタクシーに乗ってしまった。
家に着いたのは翌日の朝だった。