男と女

昔から言われているし一時は狂ったように話題になったけど、最近では言葉尻だけを捉えて誹謗中傷したりされるので、みんながあまり話題にしなくなってしまった話。
「男と女」について。これだけ書いただけでも、やれLGBTは無視するのかとかセクハラだとか(どこがセクハラなんだかわからんけど)大騒ぎする人が一部にいることは間違いない。でもこんなブログを読んでる人は多くないし、読者のほとんどは理性的な人ばかりなので今回はちょこっと触れてみたいと思う。

■男と女が”平等”じゃなかった頃
「男女雇用機会均等法」という法律ができるずっと前から”女性の社会的地位の向上”ということは言われていた。実際のところ会社勤めすれば社員のほとんどが男性だったり、役員にも管理職にも女性がいなかったりした。今でもそういう傾向は少なからずあると思う。特にボクらの世代以前は子供の頃から「男のくせに」とか「女なんだから」と言われて行動をある意味制限されて育ってきた。そこには明らかに”男と女は違う”という前提があったわけだし学校教育でもそのように教えられた。

だからと言ってそれが”すべて悪いこと”だとはボクは思っていない。一般的には”弱い女”を男が助け”ガサツな男”を女がカバーするというのは、時代によってある意味押し付けられた、お互いの成長過程で身につけたスキルによって役割分担してきた例だと思う。
もっとも、生まれながらにして男の体力が女より平均して強いということはあっても、女が生まれながらに性格が細やかだというのは疑問だ。幼い頃から「女なんだから(おしとやかにしなさい)」と言われ続けて育ってきた結果としてガサツで乱暴な行動が抑制されて、結果的に性格も細やかになったのかも知れない。

■男と女が”対等”な世界
先日「ちはやふる」という映画をテレビでやっていた。高校生の競技かるたの話だ。
映画のストーリーはさておき、競技かるたには男も女もない(らしい)。小倉百人一首に取り上げられている短歌はその多くが男女の恋物語を詠っているにもかかわらずだ。いやだからこそ男女の区別なく楽しめるスポーツ(競技かるたはスポーツだと思っています)なのかも知れない。
多くのスポーツ、オリンピック競技やパラ競技では種目ごとに「アルペン男子大回転」とか「スピードスケート女子1500m」などと男女が分けられている。そんな中ではかなり珍しいと思う。「氷上のチェス」とも呼ばれているカーリングでさえ男女別に競技は行われている。
もちろん囲碁や将棋、チェス、オセロなどでは男女の区別を設けていないが、これらは”スポーツ”とは少し違うように思う。体を鍛錬しないと”王手”は打てないなどということはないのだから。
一方で、実際の競技かるたを見ると向かい合った両者が、読み上げられた句を聞いて、反射的に一瞬を突いて猛烈な勢いで札を取り合う。それはもう格闘技とも言っていいほどだ。それでも競技かるたに男女の区別はない。

■男と女が”異なる”世界
しかし人間社会では結婚をして(結婚という制度にはこだわらないとしても)子供を妊娠して産む時にはそのほとんどが女の体から生まれてくる事実に異論のある人はいないだろう。結婚という制度は人間が考えて作ったものだが、女が子供を産むという仕組みは生物の進化の中で出来上がったものだ。人間の考え一つで簡単に変えられるものではない。そこには”体力差”などというものではない厳然とした”性差”が存在する。
ボクが子供の頃には「女が子供を生むって、誰が決めたのよ!」などと放言する無茶な人もいたが、今のところ”女が子供を産む”のはキメなのだ。

■男と女を分けるとき
男女の性差はどこにあるのか。人はしばしば「男だから」「女だからと」すべての局面で線引をしようとする。いやある程度は線引できる部分もある。体の構造も違っている部分がある。しかし「男だからランドセルは黒」とか「シャツの色は青」などと決める必要はない。必要はないが、外見からは性別がまだはっきりとわからない赤ちゃんを見た時、ピンクの服を着ていれば「可愛い女の子ねぇ~」という人は多い。”男は青、女は赤”だと自分の頭に刷り込まれているからに他ならない。別に男の子が赤い服を着ようが女の子が黄色の服を着ようが不都合などなにもないのにだ。

男と女は違う。だが男と女は同じところもある。
ザックリいえば「男と女は身体が違う」が「男と女は社会的に同じだ」ということにはならないだろうか。ところが妊娠・出産を社会の中で並列に語ろうとするからおかしなことになる。いざ子供を産む段階になって「男女同権なのに」と言っても始まらない。「男のくせにおっぱいも出ないの!」と言われても困る。出ないものは出ないのだ。

■男と女が補い合うこと
違うところと同じところをお互いが意識しながら補い合って生きていくことは、そんなに難しいことなんだろうか。別に男はいわゆる男らしく女は女らしくしなくてはいけないわけではない。「男らしい」「女らしい」は人間が後から付け加えたイメージだ。個人の自由である。
ただ、それぞれが出来ないことを無理に(共有)する必要はないのではないかと思うのだ。ともするとそれは押し付け合いにも見える。
例えば「子供が欲しい」と思う。でも男女のどちらかが「子供は欲しくない」と思えば子供を授かることはできない。だから子供は作るべきだと言っているのではない。相手の選択を間違えているのだ。お互いの人生のベクトルが同じ方向を向いていなければダメなこともある。お互いが補い合わないと叶わないことは、少なくともお互いの意志が一致しなければ叶うことはない。しかしそれはそんな項目はそんなに多くないのではないかと思っている。

■男と女のエゴ
「女房は家にいて家庭を守るべきだ」というのはエゴである。男がそうして欲しいと思っているだけだからだ。男と女が協力することで他のやり方はいくらでもある。「女は家にいて家庭を守るべきだ」と考える女もいる。これもエゴだ。エゴだが男と女が同じ考えを共有するのならその二人にとってはエゴではなくなる。
外で働くことと家で家事や育児をすることの間には基本的には超えられない性差はない。男でなければ外で働くことができないわけではないし、女でなければ家事ができないわけでもないのだから。

現在の日本に男と女の社会的な不平等があるとしても。「女が社会で活躍するためには男が家事や育児に積極的に参加すべきだ」などと大声で言ってはいけない。そんなことはアタリマエのことなのだから。社会的にアタリマエのことを大声で言い聞かせなければいけないのは子供だけだ。アタリマエのことをアタリマエにするために「信号を守りましょう」と大声で叫んでも意味はない。
男が、女が、差別だなんだと言い合っているうちは男女の平等や公平という感覚は永久に得られない。お互いが「私達は不当に差別されている」と大声で叫ぶそのことが性差を自ら意識させて男女を区別することにほかならないからだ。社会的に男と女を意識することがなくなった時こそが男と女を区別しない世の中になるのではないかと思っている。

男も女も平等に輝ける社会。素晴らしいと思う。総論では賛成だ。今の日本の社会、特に家の外に出て仕事をする上では、やはり男が有利な社会であることに疑いはない。仕事をする上での男と女の差は競技かるたほどにもないのに、である。男だけで決めた日本の風習は正していかなければならない。「妊娠して子供を産む」という一点を除けば、会社勤めも家事も育児も、男と女を区別すべきものはない。誰かが勝手に決めただけだ。そんな垣根は取り払わなくてはならない。

神代の日本ではお互いに持っているものと持っていないものを補い合って日本という国を作ったのだという。
ボクたちもその原点に立ち返って考えていかなければならないのではないだろうか。