ありがとう中毒

久しぶりにファミレスにランチを食べに来た。昼下がりのティータイムの時間である。案内されたテーブルの隣では老人ホームかデイケアから来たと思われるグループが食事をしている。恐らく「たまには外食に行きましょう」という日があって、職員に連れられてやってきたのだと思う。その会話からお年寄りは80歳前後なのだという。ゆったりと会話を楽しみながら食事をしている。のどかな午後の風景だ。

職員の女性が甲高い声で早口でまくし立てるように話している。どうということもない普通の会話なのだが一人だけ早口でまくし立てるように話すのでちょっと落ち着かない感じだ。いつも施設では忙しいスケジュールの中で膨大な作業をこなし、利用者の世話をし、話し相手になり、書類を作る中で時間に追われる生活が身についてしまったのかもしれない。
30代半ばと思われる彼女は施設にいるときと同じように、いつもと変わらない口調で話しかけているのだろう。たまたまその場に居合わせたボクだけが軽い違和感を覚えている。

決して相手の話を聞いていないわけではない。それどころかとても丁寧に話を聞いて返事をしている。ただ早口なだけなのだ。でもちゃんと話を聞いていても相手の話が終わらないうちに自分が話し始めてしまうと、話している人は急かされているように感じるかもしれない。
しかし利用者のお年寄りは、別に忙しいわけではない。どちらかというと時間を持て余している。お年寄りは話しているうちに何かを思い出したのか涙を流し始める。
職員の女性は優しくなだめる。若い人にはわからないことかもしれないが、歳を重ねて思い出が積み重なってくると涙もろくなる。
ただそれだけの話しだ。他意はない。

Eテレで平日の夜、ゲストとして街にいる普通の人を呼んで、その人の暮らしや考え方を根掘り葉掘り聞いていくという番組がある。本人の顔がわかってしまうと色々と都合の悪いこともあるので、ゲストは豚、聞き手はモグラの人形になって話を聞くという設定だ。聞き手はお笑い芸人の山ちゃんと女優のゆうさんで、歯に衣着せぬ毒舌も含めて、面と向かっては聞きにくいこともズバズバと根掘り葉掘り聞くのである。

先日はゲストに老人介護施設の介護職員が出ていた。二人は夫婦で二人とも介護職についているのだという。
ニュースなどでは介護職員による虐待や暴行などのニュースが取り上げられることがあるが、実態はもっと悲惨なものらしい。いや虐待がではなく利用者の職員に対する暴行や嫌がらせが、である。念のために言っておくが、これはテレビで放送していた内容を書いているだけで、ボクが実際に目にしたわけではない。

ベッドに腰掛けた利用者のお年寄りの足に靴を履かせていたら、いきなり膝を伸ばして蹴り上げられ、それが喉に入って息ができなくなった話。もがき苦しんでいる自分を見下ろしてせせら笑っていた老人の顔。顔を殴られてメガネを壊されることなどしょっちゅうなのだという。壊れたメガネは誰が保証してくれるわけでもなく黙って自腹で直している事実。夜中じゅう起きて徘徊して他の利用者に迷惑をかける老人を朝まで一人だけで付きっきりで世話しなくてはいけない現状。そんな自分は施設にも職員にも迷惑をかけるからと自ら退所していった老人。そのときに「利用者が退所したのはお前の介護がダメだったからだ」と怒鳴り散らした上司の所長。もちろんほとんどの利用者はそんな問題は起こさない。
しかし介護職員は、そんな中で自分の心がだんだんと折れていくのだという。夜勤をしなければフルタイムで週6日、8時間ずつ働いても11万円にしかならない手取り。この二人は結婚しているが若い職員たちがいつまで続くのか不安だという。

それでも二人はこの仕事を辞めるつもりはないのだという。「なぜ?」と尋ねる山ちゃんとゆうさん(モグラの人形だけど)に対して、「ありがとう」って言われると「あぁいいなぁって思っちゃうんです。ありがとうって中毒になるんですよ」と言った。

ちょっとわかるな、その気持ち。
ボクがいたのはホテルのブライダルで基本的にハッピーでおめでたい職場だったので、この二人のような悲惨な職場ではなかった。お客に蹴られることも殴られることもなかった(罵倒されることはたまにあったけど)。
ある時、披露宴の前夜に新郎新婦が訪ねてきて「僕達、明日の披露宴でピアノの連弾を披露するんですけど、これから宴会場で練習できませんか?」と言われる。食事を出すわけでもないのでボクがセッティングすれば出来る話だ。「いいですよ」と答えて倉庫からピアノを押してきて用意する。宴会場の明かりと空調を点けて「じゃあここでどうぞ」と言うと「遅くにすみません」と答えた。時間はそろそろ午後10時だ。練習といっても30分もやれば気が済むだろうとタカをくくっていたが1時間経っても一向に終わる様子がない。ようやく終わりそうな雰囲気になったが二人の口からは「じゃあ次の曲!」。えっ?1曲じゃなかったのか。結局終わったのは午前2時だった。それもボクが「寝不足だと明日の披露宴に差し障りますから」と言って何とか終わりにしてもらったのだ。

当然、終電は終っており職場に泊まることになったが、幸いホテルだ。部屋はたくさんある、と思う方も多いだろうが、従業員が泊まるのは地下3階にある汗臭いカプセルホテルである。それも午後10時までに施設管理に申請しておかなくてはいけない。こんな時間になるとは思っていなかったので当然申請もしておらず、事務所の硬い床にダンボールを敷いて寝ることにした。

翌朝、これまた素晴らしいことにホテルには従業員用にカビだらけの汚いシャワー室がある。リネン室から新しいYシャツと制服を受け取って着替えると新郎新婦に挨拶に行った。二人は昨夜の夜更かしの疲れも見せずににこやかに「おはようございます」と言った。早起きしてレストランでゆっくりと食事も出来たらしい。いやはやヨカッタ。当日に新郎新婦の具合が悪かったら洒落にならない。

披露宴では予定通りに新郎新婦がピアノの連弾を披露して来賓に絶賛された。よかったよかった、これで昨夜の苦労も吹っ飛んだ。もっとも一番苦労していたのは新郎新婦だったけど。

披露宴がお開きになって二次会も済むと、夜になって先程の新郎新婦がやって来た。「えっ?何かミスでもあったかな?」と不安になっていると「今まで本当にありがとうございました」「お世話になりました」と頭を下げる。いやいやボクは仕事でやっただけなのだ。
1年前に二人がホテルに申し込みに来て、何となく話しているうちに意気投合して、両家の結納をやったり、結婚式の招待状を作ったり、披露宴の演出を考えたり、席次を考えたりといろいろなことを一緒にやってきた。それなりに苦労したこともあったけどいつもにこやかな二人と話すのはボクにとっても楽しかった。でもボクはお金をもらって仕事としてやっただけなのだ。そのことに二人は「ありがとうございました」と頭を下げた。
ありがとうは中毒になる。間違いなく中毒になる。

たぶん先程、隣のテーブルでお年寄りと一緒に食事をしていた女性も中毒になっている。
自分が苦しんで辛い思いをして「もういいや」と思った人からの「ありがとう」ほど中毒になる。それは何にも代えがたいほど嬉しいものだから。