依存症という病気

僕は医者ではないし、医学的知識や知見、経験はないシロートだという前提で以下の文章は読んでいただきたい。
そして自分勝手な解釈で不用意な行動を起こすことが人生を破滅させることになりかねないということを心に留めておいて欲しい。

高松に住む精神科医の友人がSNSで”依存症”に関する入門書を紹介していた。今のところ僕は強烈な依存症にはなっていないと思っているし身の回りにもいわゆる中毒患者もいないが、昨今、日本でもカジノを合法化しようといういわゆる「カジノ法案」などで「ギャンブル依存症」などの話題を見るにつけ、どうして人は依存症になるのかという日頃からの疑問について、知識を得られればいいなと思ったのがキッカケだ。

■なぜ依存性物質を摂取しようとするのか
依存症といえばまず思いつくのが薬物中毒、アルコール中毒、ニコチン中毒、シンナー中毒などの物質的(薬物)依存症だろう。僕はこれまでこれらの依存症について「快楽を追い求める不道徳な輩が、その性格のだらしなさから依存症になるもの」という思い込みがあった。酒好きのだらしないオヤジが毎日飲みすぎてやめられなくなったとか、友達から勧められて面白半分で一度吸ってみた脱法ドラッグでラリったのが気持ちよくてやめられなくなった、というようなものだ。これなら何となく理解しやすい。だから警察庁の標語も「ダメ!ぜったい!」などといって「絶対に手を出すな」と言っているのだろう。その基本的な考え方の根底にあるのは生理学的な依存症(中毒)である。
ところがその本ではちょっと違った見方から依存症を捉えていた。

■自己治療としてのアディクション
アディクションとは依存症のことだ。自己治療とは何なのだろう。
人には自分で意識している意識していないにかかわらず大なり小なり悩みがある。それは学校のことであったり仕事のことであったり給料のことであったり売上のことであったり職場の人間関係のことであったり家庭のことであったりする。ここで自分の悩みが何なのかがはっきりと意識して理解している人はまだ対応の仕方がある。とりあえずここでは学校での”いじめ”問題に先生や教育委員会が何もしてくれない、などの世俗的な話はしないことにしよう。
僕は意識したことはないが、世の中には「鬱(ウツ)」という人がいる。ウツが病気なのかどうかということもここではひとまず置いておこう。精神疾患には数多くの症状があるらしく、訳もなく不安を感じたり、気分が落ち込んだり、ハイになったり、感情を心の中に秘めて我慢するというような、言葉では説明できないような精神状態になることがあるのだという。それは本人が意識しているかどうかにかかわらず心のどこかで精神的苦痛として感じるらしい。だが恐らく、そんなことを仮に口に出しても他人からは「甘えだよ」などと言われて相手にしてもらえないかもしれない。
そんな時に偶然に処方されたり家にあった薬を飲んで気分がスッと楽になったとしたら、次も”何だか心が苦しいとき”には”あの薬”を飲もうと思うのだという。簡単に言うとこれが「自己治療」ということだ。これは今から30年ほど前から臨床の現場でも治験などによる研究が進められてきた分野なのだそうだ。

■何でもいいわけじゃない
僕が以前に思い込んでいたのは、薬物中毒患者は「気持ちいいなら何でもいい」と思っている、のだろうということだ。要するに今さえ良ければいいと思っているダラシない輩なのだから酒だろうが脱法ドラッグだろうがコカインだろうが覚醒剤だろうがマリファナだろうが大麻だろうが何でもいいんだろうということだ。実はこうした「ヤク」については基本的な知識もなかったのでどれでもみんな「やれば気持ちよくなるもの」だと思っていたが、薬によっては正反対の効果が出るらしい。お酒(アルコール)を飲むとほとんどの人は陽気で開放的になるがヘロインなどは逆に鎮静効果があるのだという。だから自分の心に巣食う精神的苦痛によって依存する物質も異なるのだという。

■精神的苦痛の除去と生理学的物質依存症
最初は精神的苦痛を和らげるために摂取していた依存性物質も、摂取しないとそのうちに身体が求めるようになる。身体的な依存、いわゆる中毒だ。よく言われるように依存薬物は摂取し続ければ身体に重大な害がある。それでもやめられないのはテレビドラマなどによく出てくる「禁断症状」のためだと思っていた。もちろん解脱症状と呼ばれる禁断症状も顕著にあるらしく相当に苦しむのだという。そして身体に及ぼす健康被害だ。脳や内臓にも著しいダメージがあるらしいが、この本の主題ではないので詳しく語られることはなかった。
精神的苦痛から身体的な依存に進んでいくのなら理解はしやすいのだが、身体的依存状態(中毒)になって、摂取すればしたで快楽ではない苦痛だけが襲ってくることが分かっていても中毒患者は依存物質を摂り続けるのだという。そこにはそれまでの「何だか原因がわからなかった苦痛」が依存物質を摂ることによって起こる「原因が分かっている苦痛」になることの言ってみれば安心感のようなものなのだという。相手がわからない怖さよりは相手が分かっている怖さの方がいい、というような究極の選択なのかもしれない。

■コト依存
しかし依存症には薬物依存のような「物質依存」の他にも最初に出てきたギャンブル依存や買い物(浪費)依存、スマホ依存、セックス依存、ダイエット依存、過食依存、フィットネス依存、通院依存、仕事依存(帰りたくない・ワーカーホリック)、ロリコン、マザコンなどのような「コト依存」もある。コト依存なら身体が求めているわけではないので簡単にやめられそうなものだが、そういうわけにもいかないらしい。
例えばギャンブル依存の場合、何らかの不安感に苦しんでいる人がたまたま友人に勧められて競艇に行ったとする。競艇には興味はなかったが、競艇場にいる間は今まで絶えることのなかった不安感を忘れて楽な気持ちになった、とする。家に帰ったあとはやはりまたアノ不安感がぶり返してくる。そうだ、競艇に行けば楽な気持ちになれるのだ、と思って再び競艇に出掛ける。
そうやって競艇に通ううちに大金をつぎ込み生活は破綻する。(ギャンブルは必ず胴元が儲かって客は損するように出来ている)
これは依存物質によって身体が感じる苦痛と同じだ。コントロールできなかった苦痛がコントロールできる苦痛になったのだ。かくして依存は続いていく。

これが依存症の原因のすべてではないが、こういう考え方を知ったことで「依存性」というものに抱いていた偏見が変わったように思う。
決して依存症は褒められたものではない。褒められたものではないが「落伍者」「だらしない人」だけがなるものではないということを強く感じた。その上で自分や身の回りにいる多くの人達ともこういった見方もあるのだという議論の題材になればそれでもいいと思うのだ。

参考図書:
「人はなぜ依存症になるのか」
エドワード・J・カンツィアン/マーク・J・アルバニーズ著
星和書店